(『理論心理学研究』次回発行巻に掲載予定)

強制されているとは、どういうことか

― コンフリクト問題として:非力動的動機理論の観点から ―

What does it mean to have been forced?

  

田嶋清一(東京福祉大学心理学部)

1、本発表の背景

 私たちは、使っている言葉や概念に縛られています。それは単に言葉の問題ではなくて、どんな言葉を使うかにより、私たちの在り方が縛られているということです。

 例えば、従来の欲求不満概念の見直し(田嶋、2013)が必要です。フラストレーションは、従来の心理学辞典では、「欲求充足行動が途中で妨害、阻止された不快な緊張状態である」として、緊張や圧力など力の概念を持ち込んで理解されています。しかし、妨害や阻止は、見通しに組み込まれさえすれば、何ら問題とならないのですから、力の概念を持ち込まずに記述すれば、フラストレーションとは、「思いがけない事実に出会って、自身の見通しが損なわれた状態、すなわち新たな認識への促しである」として理解できます。フラストレーション状態から回復するためには、何らかの努力が必要ですが、従来は、とかく血と汗と涙、力んだ努力に陥りやすく、これは体罰に結び付く可能性があります。むしろ、力の概念を持ち込まない努力が必要で、それは、従来の努力概念を脱構築して得られる、気づき、発見、工夫、熟慮、受容、が中身となる新たな努力概念です。努力とは事柄の全体に沿って意味を認識し、自身の在り方を選び直すことです。具体例をあげますと、桑田真澄という元巨人の投手が、ある少年野球チームのコーチをしている時に「がむしゃらに努力するんじゃなくて、気づくんだよ。気づけ~」と内的な気づきの必要を説いていました。

 昨年の本大会の発表(田嶋、2015)は、「怒っている自分とどう向き合うか」でした。結論を言えば、怒りは、決して湯川(2005)が定義しているような「不当な侵害に対する自己防衛のために喚起された心身の準備状態」ではない。私たちは縄張り争いをしているヤクザではないのですから。今回のテーマ「強制」と関連づけるならば、従来の怒り概念は、すでに、不当な状況の強制、つまり「不当なことをされたら、腹を立てて当然だ」という自己正当化・合理化を含んでいて、これは努力(気づき)によって克服可能です。私たちは日常、不当な相手に暴力で対抗しようと考えていない。アサーションの考え方に立つならば、相手を威嚇しようとする攻撃的な自己表現でもなく、いじけた非主張的な自己表現の中でアパシーになるのでもなく、粘り強く相手と自分を共に生かすアサーティブな自己表現を心がけています。しかし、そういう私たちが、それでも何かに対して「怒っている」とは、何をしていることでしょうか。つまり、私たちが、誰かのせい、状況のせいにして怒っている「自己正当化・合理化としての怒り」を、努力(気づき)によって削ぎ落としたとしても、残る怒りはあって、それは義憤などに見られます。それは、感情的でない、緊張や圧力など力の概念を持ち込まない怒りです。思いがけない事態と出会っているという認識(発見、驚き)が中心になる怒りです。怒りとは、見えていなかった事実に出会い、今まで気づいていなかった、自分にとって都合の悪い事実とその意味に気づく、貴重な機会に遭遇している、ということです。その意味で「認識としての怒り」は、私たちが現実を知る大切な手がかりとなります。

 

2、今回の発表のポイント

 強制の概念を選んだきっかけは、敬愛する鶴見俊輔氏の言葉です。「不健康だった子供の頃から、健康でいることを母や学校、社会から強制されたが、自分を守ることは不健康を守ることだった」と戦前、戦中の自分の経験を振り返り、画一的な価値観を押し付ける社会の在り方に警鐘を鳴らした。(毎日新聞、京都版、1996,12,8)

 「隊員のほとんどが自分から手を挙げたかつての特攻隊には、拒否できない『共同体の強制』があった。行くのを決めるのは本人。しかし、密室の中で『決意』させられるような環境は避けるべきだ」と語っている。(毎日新聞、夕刊1992年9月4日)

 一応わかります。しかし、強制的とは、強制されているとは、どういうことか、必ずしも明らかでないと考えます。そこで、強制の問題を、私たちの日常にしばしば随伴するコンフリクト問題として捉えることにします。

 レヴィン(1935)は、「罰の脅威は、いつも、そして必ず強制的状況の構造をもたらすことを大いに強調しなければならない。(…)子供の環境が罰の脅威の上に基礎づけられていればいるほど、また罰が厳しければ厳しいほど、その環境は全体として、刑務所とか、柵で囲まれた感化院とか、カギのかかった部屋とか、絶えざる監視下といったふうの強制的性格を帯びてくる」としています。しかし、その際、厳しい状況に置かれても常に選択肢を持っている私たちが、力の概念を持ち込まない立場(田嶋、2013)に立つことにより、強制の概念に関連して、いかに私たちの心の健康に、新たな光を当てられるのか、が今回の発表のポイントになります。

 

3、レヴィンによるコンフリクトの定義

 レヴィン(1946)は、「コンフリクト状況は、人に作用する力が方向において反対で、強さにおいてほぼ等しい状況と定義できる。押しやる力について、三つの場合がある。人が、二つの正の誘発性の間に位置する場合と、二つの負の誘発性の間に位置する場合と、同じ方向に正の誘発性と負の誘発性がある場合である」としています。これは力の概念を持ち込んだコンフリクトの定義です。しかし、強制的状況の構造と結び付けられやすい「二つの負の誘発性の間に人が位置する場合」について、力の概念を持ち込まないで、観察に基づき、体験に近い言葉を用いて、以下のように記述できます。

 これはすでに、力動的ではないコンフリクト理解ですが、お母さんが勉強の嫌いな子供に、「勉強しなければ怒りますよ」と言っている場合(負の誘発性=勉強、負の誘発性=怒られること):この場合、その子が「どちらかを選ぶしかない」という見通しの下に、勉強を選ぶとすれば、「選ばれた勉強」は負の誘発性と共に、「お母さんを怒らせなくてよかった」という意味の正の誘発性を獲得すると考えられます。また逆に「どちらかを選ぶしかない」という見通しの下に、お母さんに怒られるほうを選ぶとすれば、「怒られること」は負の誘発性と共に、「勉強しなくてよかった」という意味の正の誘発性を獲得すると考えられます。こんなこましゃくれた子供がいるかどうかは別として、です。「勉強」あるいは「お母さんに怒られること」のどちらを選んでも、正と負の誘発性が共に介在するのは共通です。いずれも原則的に強制的状況の構造をもたらすわけではない。選択肢を持っている私たちが、選択する限り、コンフリクトを感じ、強制されていると感じるとは限らず、状況の受容が可能です。しかし私たちは、日常、しばしばコンフリクトを感じ、強制されていると感じる場合があります。これらの場合は、状況の構造によるのではなく、主体の在り方の問題であり、そう感じることの都合のよさ、いわば「被害者意識」によると考えられます。従来、臨床家の間で、クライエントの被害者意識は、被害そのものより悪い、とはすでに言われていることです。

 次は、事実としての被害はあったとしても、それを都合よく使う被害者意識(ある種の自己正当化)が、ベトナム戦争時のPTSDからの治癒を妨げていた事例です。

 

4、元海兵隊員の証言(2006)

 ネルソンさんは、アメリカ海兵隊員としてベトナム戦争に、13か月間従軍し戦闘を経験し、帰還したとき、すでにPTSDを発症していました。彼はPTSDの治療のためカウンセリングを受けることになった。カウンセラーのダニエルズ先生は彼に「あなたはなぜ人を殺したのですか」といつも尋ねた。そのたびに彼は、「上官の命令だったから」「海兵隊で殺す訓練を受けたから」「戦争だったから」(つまり、誰かに何かに強制されたから)と答えていたが、あるとき、「殺したかったから」(つまり、自分が人を殺すことを選び、それ以外の選択肢を選ばなかったから)と答えることによって、はじめてPTSDからの治癒の手掛かりをつかむことになります。

 

5、結論「強制はない」「被害者意識の吟味が必要」

 選択肢を持つ私たちにとって、そこに置かれれば必ず強制されていると感じるような強制的状況は、原理的にはない。ただし、心的に疲弊した私たちが、しばしば、状況によって強制されている、誰かのせいだ、と感じる、いわゆる「強制的状況」は存在します。つまり、誰かのせいだという言い方を私たちは、しばしばします。小さな子供が転んで、机の角で頭をぶつけたとき、そばにいた母親が、お母さんが悪かったね~、とか、この机が悪いね~、と言ったりします。しかし、これは、「しかたなかった、誰かのせい、状況による強制」についてのある理解と対応策であって、もちろん必要なことです。しかし子供ではない、大人の当事者、大人の被害者の心の健康を保つ上で、こういう対応が適切なのか。国家権力や社会や何者かの強制など、確かに何らかの被害の事実はあるとしても、それを都合よく使う「被害者意識」という自己正当化・合理化が、強制とか、させられている、という言葉を使う背後に忍び込み、私たちの在り方を不自由に、無力にしているのではないか。PTSDのネルソンさんがそうであったように。強制という言葉の背後にある「被害者意識」の意味に気づき、私たち自身の在り方を選び直すという努力が、広汎な能力(気づき、発見、工夫、熟慮、受容、など)を含む新たな努力概念(田嶋、2013,Ⅵ章3参照)によって可能になると考えられます。

 

引用文献

Lewin,K.(1935) パーソナリティの力学説 岩波書店.

Lewin,K.(1946) 社会科学における場の理論 誠信書房.

Nelson,A. (2006) 戦場で心が壊れて 元海兵隊員の証言 新日本出版社.

田嶋清一 (2013)フラストレーション現象の再吟味によって動機に関する「非力動的な考え方」とは何かを明確にする

 理論心理学研究,2012・2013 , 1-14.

田嶋清一 (2015)「怒っている」とは何をどうしていることか 理論心理学研究,2014・2015 , 76-77.

湯川進太郎(2005) バイオレンス―攻撃と怒りの社会心理学― 北大路書房.