タイトル: 『フラストレーション現象の再吟味によって、動機に関する 「非力動的な考え方」とは何かを明確にする――ジェームズ, W. とベルクソン, H. の考え方に基づいて――』

(『理論心理学研究』2012・2013第14巻・第15巻合併巻〔2013年12月27日発行〕1頁~14頁掲載論文)

Clarification of the “Non-Dynamic View” of Motivation through the Reconsideration of the Frustration Phenomena: Based on the Ideas of W. James and H. Bergson

田 嶋 清 一(立正大学心理学部)

キー・ワード: フラストレーション、動機に関する非力動的な考え方、認識としての努力、気づき、意志心理学

はじめに

 心理学辞典によれば、「フラストレーションは、欲求不満や欲求阻止と訳され、有機体が目標へ到達するための欲求充足行動の途中で、何らかの障害によってその行動が妨害された状態をさす」、または「欲求阻止の結果としてもたらされる不快な緊張状態をさす」、そして「有機体は、欲求不満という不快な緊張状態を解消するために何らかの対処を行う」(中島ら, 1999, p. 755)とされている。しかしフラストレーションとは、「解消する」べき「不快な緊張状態」であろうか。本稿は、そうではない、との観点に立ち、これまで論じられてこなかった新しいフラストレーション観を提案する。すなわち、フラストレーションの根底に何らかの緊張・圧力を想定する考え方を「力動的(dynamic)」と名づけ、その考え方(力動論)に疑問を投げかけると共に、緊張・圧力の想定に反対する考え方を「非力動的(non-dynamic)」と名づけ、その考え方(非力動論)を新たに提案する。

 本稿の目的は、フラストレーションの現れ――苦しみ――の中で、自身のあり方を選び直そうと努力している私たちにとって、「フラストレーションとは何か」を明らかにするために、フラストレーション現象について、力の概念を持ち込まず非力動的観点から再考することであり、さらにそこから、動機に関する「非力動的な考え方」とは何かを明らかにすることである。

 この目的のために、Ⅰ部(Ⅰ~Ⅳ章)では、フラストレーション現象理解の問題状況を概観し、理解を深めるための方法論を考察する。Ⅱ部(Ⅴ~Ⅵ章)では、フラストレーションとは何かを非力動的観点から再考し、さらに非力動的観点とは何かを総合的に考察する。各章の内容は、まず問題状況を概観し(Ⅰ章)、それを踏まえて、Bergson(1934)を手がかりに、習慣的理解としての「力動的な考え方」を分析する方法論を示す(Ⅱ章)。そして「力動的な考え方」の形成過程を分析し、その根底にある思想を明らかにする(Ⅲ章)。次にフラストレーション現象を現象に即して理解するための方法を、James(1909)を手がかりに考察する(Ⅳ章)。その上で、「意志」に関するJames(1892)の非力動論に立ち、非力動的観点をフラストレーション現象理解に適用する(Ⅴ章)。以上の考察に基づき、「力動的な考え方」の問題点を示し、問題点との対比から、フラストレーション現象理解の基盤となる、動機に関する「非力動的な考え方」の本質を明確にし、そこから帰結する「努力とは何か」の非力動的見解を示す(Ⅵ章)。

Ⅰ部 問題状況の概観と方法論的考察

Ⅰ章 フラストレーション現象理解の問題状況の概観

1. 従来の力動的捉え方、その問題点と、新たな提案

 フラストレーション(欲求不満)には冒頭で示した定義の他に各研究者による定義がある。例えばFreud, S. によれば、「用語の統一のため、欲求が満足されないことを欲求不満(Versagung)〔…〕という言葉で表すことにしよう」(Freud, 1927/2011, p. 9, 田嶋訳語改訂)とされている。「欲求が満足されないこと」という点では、その他の定義でも概ね共通であり、例えば「発動された目標反応が行動系列の中途で干渉を受けた場合を欲求不満という」(Dollard, Doob, Miller, Mowrer, & Sears, 1939/1959, p. 9)とされ、また「生活体が目標反応の過程に於いて、何らかの障害によってその際の要求満足を妨げられることがフラストレーションである」(佐治, 1966, p. 164)とされている。

 しかしフラストレーションを、欲求が満足されないこと、及び不快な緊張状態として力動的に捉える限り、欲求と欲求不満の区別がつかず(Ⅲ章2参照)、欲求を満足させるか、不快な緊張状態を解消する以外に対処の方向性が見えない。これは問題である。本来、私たちは熟慮の上、思いがけない事実に沿って新たな見通しを立てる、という努力によって、フラストレーションに対処できる。そこで筆者は独自にフラストレーションを、思いがけない事実に出会って見通しが損なわれた状態(意外感や苦しみ)、と捉え直すことを提案する。それによってはじめて、見通し(計画性)の回復という目指すべき方向が明確になる(Ⅴ章1参照)。

 

2. 動機に関する力動的な考え方と非力動的な考え方

 前節で示した従来の捉え方の背景には次のDeweyやWundtに典型的に見られる「力動的な考え方」がある。

 Deweyによると、「目的を実現しようとするとき、私たちを突き動かすものは不満感である。あるものが、いかに強く欲望されようとも、または、いかに固く選択されようとも、不満感(feeling of dissatisfaction)がなければ、意志作用は起こらず、求めるものは考え(idea)のまま止まる。考えは心に保持されても動かす力(moving power)を持たない。それは行為への動機ではあっても、行為の動力(motor force)ではないからである」(Dewey, 1891, pp. 368-369, 田嶋訳)。 

 Wundtによると、「動機は考え要素と感情要素に分けられ、第一要素を運動理由と呼び、第二要素を意志のバネと呼ぶ。猛獣が獲物を捕まえる場合、運動理由は獲物を見たことであり、意志のバネは飢えの不快感(Unlustgefühl)または獲物を見たことから生ずる種族的憎悪であろう」(Wundt, 1896, p. 218, 田嶋訳)。

 DeweyやWundtの考え方では、行動を起こすために、不満感や不快感や憎悪が不可欠だということになる。この考え方にとって動力は動機の不可欠な条件であり、動機の根底には何らかの動力(不満感・不快感・憎悪・怒り・恐怖などの感情)が想定されている。問題となる従来のフラストレーションの定義の背景には、「動力としての感情」を想定する「力動的な考え方」がある。現代の心理学の教科書の多数も「感情が行動を動機づける」としている。例えば、「感情は、何かの行動を起こすように私たちを駆り立てます」(山内ら, 2006, p. 173)、「情動は、怒りが攻撃行動を生じさせるように、行動を始発させる動機づけの働きをもつ」(鹿取ら, 2008, p. 219)など。これらから分かるのは、リビドーや動因などの動力を想定する精神分析や行動主義からArnold, M. B. の感情理論、交流分析、認知行動療法に至る現代心理学の多くに、「力動的な考え方」の観点が含まれていることである(田嶋, 2007, pp. 71-84)。

 一方、「動力としての感情」を想定しない「非力動的な考え方」を、古くは、行動の動機として怒りは役に立たないと考えたSeneca(41)に、また、独自の感情理論を唱えたJames(1890)に見ることができる。

 そこで本稿では、フラストレーション現象――思いがけない事実に出会って見通しが外れ、腹を立てたり、がっかりしたり、はしゃいだりしている私たちの姿――の再吟味によって、動機に関する「力動的な考え方」とは何かを論じ(Ⅱ~Ⅲ章)、それを踏まえて「非力動的な考え方」とは何かを明確にする(Ⅳ~Ⅵ章)。

 

Ⅱ章 方法論的考察(その1)Bergson, H.の方法

 本章では、Bergson(1934)を手がかりに、習慣的理解「力動的な考え方」を分析するための方法論を示す。

 Bergson(1934)は、多くの哲学者が知覚を概念に置き換えることを哲学と見る傾向に反対して、次のように述べる。「哲学が本来の面目を発揮するのは、それが概念を超えるときに限られる。または少なくとも出来上がった硬い概念から解放されて、〔…〕直観という逃げやすい形にいつでも当てはまるばかりになっている、しなやかで流動的な表現を創り出すときに限られる」(Bergson, 1934/1998, pp. 262-263, 田嶋訳語改訂)。

 この考え方に立てば、出来上がった硬い概念「欲求不満」から解放され、しなやかで流動的な表現を創り出すときに哲学は本来の面目を発揮する。本稿は、この考え方に立ってフラストレーション現象を振り返る。 

 さらにBergson(1934)は次のように述べる。「変化の問題が肝腎である。〔…〕変化を捉える努力をすれば、すべてが簡単になるはずであるが、そうならないのは、ふだん私たちが変化を眺めてはいるが知覚してはいないからである。〔…〕変化を見るには知覚に注意を集中し、知覚を偏見のヴェールから解放する必要がある」(Bergson, 1934/1998, pp. 204-205, 田嶋訳語改訂)。

 この考え方に立てば、変化そのものであるフラストレーション現象を、私たちは眺めてはいるが、本当に見てはいない。「欲求不満」という言葉を習慣的に紋切り型に使っているだけである。フラストレーション現象を見るには、捉える努力「見ようとする努力」が必要である。それはどんな方法によって可能だろうか。

 Bergson(1934)によれば、その方法とは、これまでの哲学のように知覚を概念に置き換えることではなく、一つの知覚を拡張深化することである。知覚を生活の用途に利用しようと考えない芸術家たちは、例えばコローなりターナーなりが自然のうちに私たちが無視し気づかずにきた細やかな眺めを見てとったように、知覚の拡張深化が可能なことをすでに示している。芸術が特権的な芸術家のために行っているこの知覚の拡張深化を、哲学が別の意味、別の仕方ですべての人のために試みる方法とは、注意力からその眼隠しをはずし、生活の要求が押しつけている窮屈な習慣を棄てることである(Bergson, 1934/1998, pp. 209-217, 要約)。

 この考え方に基づき、私たちがフラストレーション現象を見ようとするとき、見ることを妨げる眼隠し(偏見のヴェール)がある。その一つが、緊張・圧力を想定する習慣的理解としての「力動的な考え方」である。これを分析することがフラストレーション現象という濃厚な現実を「見ようとする努力」になり、「非力動的な考え方」の本質をも明らかにする。筆者はそう考え、次章でこの考え方(力動論)の形成過程を分析する。

 

Ⅲ章 力動論:現象に即した理解に対する形作用

 本章では、まずパラドックス(逆説)「アキレスと亀」において、James(1909)とBergson(1934)を手がかりに、運動の根底に「不動なもの」を想定する習慣的理解は本来あり得ないことを示す。次に逆説「欲求があるとは欲求不満のことである」において、欲求の根底に「不動なもの」と「動かす力」を想定する力動論は、フラストレーション現象の運動や変化をあるがままに認識できず、現象に即した理解に対する変形作用であることを示す。ここで逆説、つまり「容認し難い結論へ導くもっともらしい推論」を取り上げる意味は、論理矛盾を脱する工夫が、新たな展望を開くことにある。

 

1. ゼノンのパラドックス(逆説)「アキレスと亀」

1)主知主義的な興味のゆえに行われる「変形作用」

 James(1909)が運動と変化を論じる中で取り上げたゼノンの逆説「アキレスと亀」とは、以下の話である。スタートのA地点を亀が先に出発し、後からアキレスが追いかけ、競争をした。アキレスはやがて簡単に亀を追いこすと予想される。しかしゼノンによれば、アキレスは決して亀を追いこせない。なぜなら、アキレスがA地点から走り始めたとき亀がすでに到達していたB地点までアキレスが辿り着くのに多少の時間はかかるはずであり、亀はその間にさらに先のC地点へと少しすすむ。またアキレスがB地点から亀のいたC地点まで辿り着くのに多少の時間はかかるはずであり、亀はその間にさらに先のD地点へと少しすすむ。これは次から次へと限りなく続くはずであり、ゆえにアキレスは決して亀を追いこせない、とゼノンは言う。 

 さて、ゼノンの逆説「アキレスと亀」では、時間と空間は無限に分割可能だから、アキレスは亀に決して追いつけないと考えられている。しかしJames(1909)によれば、私たちの感覚・知覚の経験を観念的に無限に細かい部分に分解することは、主知主義的な興味のゆえに事実に人工的な切れ目を刻みこむことであり、 経験の秩序を概念の秩序に変えてしまう「変形作用」(transformation)である。これは知性にもともと内在する作用であり、その現れが逆説「アキレスと亀」である。「運動とは連続する時間点に対応して連続する空間点を占めることである」との定義によって時間と空間を分離し、ひそかに空間だけで考え、空間を無限に分割・分解し、あるがままの経験を変形させるやり方を取れば、その定義は無限に指定可能な位置を与えるが、指定された位置(不動)はいかに多数でも運動の要素を含まない。ゼノンは議論でこの位置のみを問題にしたので、私たちの知性は運動を非現実とみなさざるを得なかった。この「変形作用」の背景には、主知主義的歪曲が習慣的に行われた歴史がある。Jamesは、概念が知覚から抽象された不十分な代用物に過ぎないのに、プラトン以来、知覚の流れを概念で捉えることによって恣意的・人工的に変形させる主知主義的伝統が続いているとの文脈で次のように述べる。 

 「私たちは、論理的思考が真理に通ずる唯一の道であるとする哲学的伝統に慣れているので、言語に表現されていない、なまの人生に立ち返り、そこに真理を求め(傍点田嶋)、概念のことを、ベルクソンのように、単に実用的なものにすぎない、と考えることはとても難しい。それは、私たちが誇る知性の発達を脱ぎ捨て、理性の目から見れば再び小さな子供のように愚かになることである。しかしこの革命はこのように難しいが、私が思うに、現実を手に入れるのに他の方法はない」(James, 1909/1961, p. 209, 田嶋訳語改訂)。

 私たちに主知主義は根深い。私たちは正しさの概念に頼り、誰かを悪者にして自分を正当化するが、なまのフラストレーションに立ち返り、その気持ちに丁寧に寄り添うことはしない。主知主義は、知性化という理屈に頼るあり方を生み出す。知性化は、個人の問題というより、私たちの文化に浸透したテーマである。しかし、このテーマへの対処として、「私たちが知的な問い方をやめるとき」(James, 1902/1970, 下 p. 198)、Jamesの言う言語に表現されていない、なまの人生に立ち返り、そこに真理を求めることが可能になる。例えば、リラクゼーションにより「潜在する安らぎ」が、黙想により「沈黙の豊かさ」が、フォーカシングにより「存在の不思議さ」が、それぞれ開示されることは、体験が示す通りである(田嶋, 2007, pp. 198-206)。

 

2)「運動は不動からできている」との習慣的理解

 Bergson(1934)は、逆説「アキレスと亀」におけるゼノンのやり方――アキレスの駆け足を、アキレスが通過した空間と同様に、任意に分解できると認め、経過が実際に経路に当てはまると信じ、運動と不動とを混同すること――は、まさに私たちの習慣的方法であるとしている(Bergson, 1934/1998, pp. 226-227)。

 「運動は不動からできている」との理解に基づく、この習慣的方法により、James(1909)の言う「変形作用」も行われている。ゆえに本来の理解に基づいて、「アキレスの運動という行為は、彼が通過した空間とは同一視できず、運動や変化は本来、時間の現象であり、位置の系列(不動)としては理解できない」との認識がゼノンのパラドックス(逆説)を解く鍵になる。

 しかしフラストレーション現象は、「意識の流れ」(次章1参照)として運動や変化であるが、その現象への習慣的捉え方を振り返れば、そこには「不動なもの」がすでに想定されている(例えばDeweyの言う「考え」)。この想定が「動かす力」を導入する経緯を次節で見る。

 

2. 逆説「欲求があるとは欲求不満のことである」

 「欲求があるとは欲求不満のことである」は、Deweyらの力動論に潜在する考え方であり、前節で示したゼノンの考え方「アキレスは亀を追いこせない」が逆説(容認し難い結論へ導くもっともらしい推論)であるのと同様に、逆説である。なぜなら、Deweyらが言うように、考えだけでは行動できず、行動を起こすには、欲求の根底に「動力としての不満感や不快感」などの感情的要素が不可欠であるとする限り(Ⅰ章2参照)、そのような欲求は、「欲求不満という不快な緊張状態」〔心理学辞典(中島ら, 1999, p. 755)による定義、はじめに参照〕と区別がつかないので、「行動を起こすには常に欲求不満状態でなければならない」という容認し難い結論へ導かれることになるからである。上記の定義はさらに、「有機体は、欲求不満という不快な緊張状態を解消するために何らかの対処を行う」としている。このDeweyらの観点に立てば、私たちは考えだけでは行動できず、欲求及び欲求不満という動力や緊張に駆り立てられるしかないことになるが、果たしてそうか。いま実現できない願望は別にして、実現できる欲求においても、確かにそのことを考えるだけでは行動できないように見える場合がある。例えば受験勉強しようと思っても中々取り掛かれない場合のように。しかし、「意識の流れ」を想定した上で、動機の根底に動力は必要ないと考えるJamesの観点に立てば、この場合は標準でなく、本当は別のことをしたい考えにより干渉を受けている特殊な場合であり、干渉する別の考えさえなければ、常に考えた通りの行動が起こる(Ⅴ章2で詳述)。ゆえに一般に欲求や欲求不満の根底に動力や緊張は必要でなく、欲求とは行動が従うための見通し、つまり「ある状況で目的に向けある手順を踏めばある結果が得られる」という目的-手段に関する計画案(考え)である。見通しが損なわれた状態(欲求不満)の中でも熟慮の上、事実に沿って新たな見通しを立てれば、私たちは思いがけない事実に対処できる。

 このように動力や緊張を想定しない立場では、欲求と欲求不満の区別は明確である。よって上述の逆説は、 Dewey(1891)やWundt(1896)などの「力動的な考え方」の上にのみ成り立つことが分かる。この「力動的な考え方」とは、行動の根底に、それ自体では動かない「不動なもの」をあえて想定する考え方である。この「不動なもの」とは、例えばそれ自体では動力を持たないDeweyの言う「考え」を指す(Ⅰ章2参照)。それと対比的に、Jamesの言う「考え」は、意識の流れを前提として行動を直接に引き起こす(Ⅴ章2参照)。

 それ自体では動かない「不動なもの」をあえて想定することは、容易に推定できるように、暗に「不動なもの」とのセットとして、それを「動かす力」を――ちょうど「蒸気エンジン」を動かす「蒸気」のようなものとして――導入することに繋がる。もともと運動であり変化でもある私たちの行動(例えばフラストレーション現象)の根底に「不動なもの」を想定し、行動を引き起こすためには、さらに「動かす力」(不満感や怒りなど)を導入する必要があると考える「機械的習慣的理解」こそ、Deweyに代表され、実は私たちがとかく傾倒しやすい「力動的な考え方」である。この考え方の根底には、モーターが動き出すのに電力が必要であるのと同様、人間の行動にも動力が必要であるとする、自然科学を手本として精神現象を量と力に置き換える思想がある。Freud, S. も動力を導入し、「リビードとは飢餓とよく似ていて、欲動、いまの場合は性欲動で、〔…〕その性欲動が発現する際の力のことを謂います」(Freud, 1917/2012, p. 324)としている。

 しかし動力を導入せず非力動的観点に立てば、欲求とは目的と手段を含む見通しとしての動機であり、欲求不満とは計画性(見通し)が損なわれた状態である。

 こうして欲求と欲求不満の区別が明確になれば、欲求の根底に「動かす力」をあえて導入する、「力動論」という変形作用は成り立つ余地を失うので、私たちは逆説「欲求があるとは欲求不満のことである」から抜け出し、新たな展望「非力動論」を開くことができる。

 

Ⅳ章 方法論的考察(その2)James, W.の方法

 本章ではフラストレーション現象などをあるがままに理解するための方法論を、Jamesを手がかりに示す。

 

1. 内省と共感的理解による概念の再吟味

 Jamesは知覚と概念を対比させ、活動と変化に満ちた人生の豊かな内実(知覚の世界)は、概念的認識によっては十分にその真意が理解されず、内省と共感的理解にのみ自らを開く、との文脈で次のように述べる。

 「現実の濃厚さ(thickness)を本当に理解するには、自分は現実の一部なのだから、現実をじかに体験してもよいし、誰か他人の内的生活については、共感を通して推測することによって現実を想像の中に呼び起こしてもよい。しかし、この二つ以外の道はない」(James, 1909/1961, p. 192, 田嶋訳語改訂)。   

 なぜなら、James(1911)によれば、概念は日常生活で私たちを導く巨大な地図として重要であり役立っているが、以下の短所があるからである。つまり、すでに生きて動いているこの意識世界(知覚の流れ)を理解しようとして、言語化することで概念の地図を作ろうとすると、作られた地図は「現地そのもの」(私たちの体験そのまま)ではないので省略や歪曲が起こり、本質的特徴が失われる。「犬」という概念は咬みつかないし、「雄鶏」という概念は時を作らない。私たちは今の事実を「知覚の流れ」でのみ知るのだから、認識作業に際しては、この濃厚な「知覚の流れ」を拠り所にすべきである(James, 1911/1968, pp. 307-311, 要約)。

 こうしてJames(1892)は、「意識の流れ」(知覚の流れ)を丁寧に観察する限り、動機の根底に動力の概念を導入する必要はない、動機の説明に動力という既成の概念を持ち込めば、動機それ自体に即した理解が歪曲されると考え、DeweyやWundtなどの力動論とは原理的に異なる非力動論に至った(次章2参照)。  

 本稿の研究方法は、James(1892, 1909, 1911)の考え方「既成の概念化に頼るのでなく、自己については内省、そして他者については共感的理解によって、豊かな『意識の流れ』を観察すべきである」を具体化し、概念の再吟味をさらに進めることによる。すなわち、田嶋(2007)が述べているように、フラストレーション現象という濃厚な現実を、その利点や弊害を含めて丁寧に内省し、共感的理解が可能になる当事者との率直な対話を行い(次節参照)、体験に近い言葉を用いてそれらを記述する、という方法を基本とする。

 

2. 「共感的理解が可能になる率直な対話」とは

 非力動論と通底し、私たち個々の経験の多様性と修復可能性を認めるJamesの多元論によれば、「多元的宇宙の不完全さは、私たちの行動によってその非連続性を改善することにより修復される」(James, 1909/1961, p. 250, 要約)。また「世界の全ては誰かによって知られるかもしれないが、一人によって知られるわけではない」(James, 1911/1968, p. 334, 要約)。ゆえに多元論としては、誰かとの対話が必要とされる。

 例えばJames(1899)は北カロライナの山中を旅行し土地の人が「山かげ」と呼ぶ開墾地を馬車で通った時の様子を述べている。「私はひどく汚いな、と感じた。移住者は樹木を切り倒し丸太小屋を建て、まわりに豚や家畜を飼い、雑然とトウモロコシを植えていた。無残に荒れた森の生活は醜悪に見えた。私は憂うつになり、馬車を進める山の男に言った。『この辺で新しく開墾をやらされているのはどんな人達なのかね』『わしらは皆そうですよ。わしらはね、ここらの山かげのどれかを開墾していないと面白くないんですよ』と御者は答えた。私はハッと気がついて、今まではこの状況の内面的意義をすっかり見落としていたのだ、と感じた。この開墾地は、私には網膜に映る殺風景な一情景に過ぎないが、開墾者達には数々の努力の記憶を蘇らせる象徴であった」(James, 1899/1960, pp. 228-230, 要約)。

 開墾者達の独特な理想に盲目であり憂うつになっていたJamesは、対話から気づきを得て自身のあり方を選び直した。私たちは不完全さを修復するために、理想を異にするかも知れない誰かとの共感的理解が可能になる率直な対話を必要とする。よって前節で示したように、本稿の方法は内省と対話と記述を基本とする。

Ⅱ部 非力動的観点の明確化へ向けての総合的考察

Ⅴ章 非力動的観点からのフラストレーション再考

1. フラストレーションとは、意外感や苦しみである

 フラストレーションとは、「欲求充足行動が途中で妨害(阻止)された状態」や「欲求が満足されないこと」ではなく、思いがけない事実に出会い見通し(計画性)が損なわれた状態、「意外感」である。妨害や阻止は見通しに組み込まれさえすれば何ら問題とならないので、結局、フラストレーションとは、「見通しが損なわれていること」である。なお意外感とは、「こんなはずじゃないのに」という受け容れにくい気持ちである。見通しが損なわれると、見通しの不確かさと、不確かさに揺さぶられ自分を見失うことによる「苦しみ」が現れる(田嶋, 2007, pp. 19-22)。意外感と苦しみとは、見通しの不確かさを共有する、根底で通じ合う体験である。乳児の空腹への反応から大人の複雑な精神生活に至る幅広い領域で観察できるフラストレーション現象とは、「思いがけない事実に出会って見通しが外れ、腹を立てたり、がっかりしたり、はしゃいだりしている私たちの姿」である。しかし私たちは短絡的に腹を立てたりするために、ますます見通しが外れる悪循環に陥ることがある。この悪循環への対処のために、私たちは、その全貌が見えてはいない思いがけない事実とその意味に気づいて見通しを回復し、自身のあり方を選び直すという努力を必要とする(本章6・7参照)

 

2. 「動力としての感情」を想定しない考え方

 James(1892)が、意識の流れの観察によって、どのように非力動論に到達したかを次に示す。「どんな動作を引き起こすかを特定する考えと、実際に起こる動作それ自身の間に、第三種の心的現象(田嶋注1)が介在する余地はない。〔…〕人が『着替えをしなければならない』と思えば、すでに上着を脱いで指がいつものようにチョッキのボタンを外したりしている」(James, 1892/1939, 下 pp. 227-229, 田嶋訳語改訂)、「私たちが運動を起こすには、まず感覚や考えを持って、次に、動かす何か(田嶋注2)をこれに付加しなければならないということはない。〔…〕『意識は本質的に活動の先駆者たりえず、活動は意識に付加された「意志動力」(田嶋注3)の結果として生ずる』という通俗の考え方は、私たちが長い間ある活動を考えていても、活動が起こらないことがあるという特殊な場合から生ずる極めて自然な推論である。しかしこのような場合は標準ではなく、反対する考えにより禁止を受けている場合である。〔…〕単にある考えの存在が運動を起こし、別の考えが、運動が起こるのを阻止する」(イタリック原著, James, 1892/1939, 下 pp. 235-236, 田嶋訳語改訂)。

 (田嶋注1~3):(第三種の心的現象・動かす何か・意志動力は、いずれもDeweyらが行動を起こす動力としている不満感、不快感、憎悪などを指すと考えられる)。

 Jamesによれば、考えだけでは行動は起こらないとするDeweyらとは違って、注意(興味と同義)を捉えている考えが行動を起こすのであり、その際、個々の活動の動力は問題とされない。なぜなら観察によれば、意識はすでに「不断の流れ」であり、活動はこの意識世界の本質である。よって、どんな道筋をたどって活動が行われるかの「選択」のみが動機論の問題となる。つまり意識の流れは、注意と無視により不断に対象を受け容れたり拒絶したりして選択している。ちょうど、流れる水路の水を、水門の開閉により、右に流すか左に流すかを選択するように、私たちは「じっとしていること」を選ぶか、「歩き出すこと」を選ぶかという選択をしている。この選択はどちらの考えが注意を十分に捉えるかにより決定される。恐怖感の中でもどちらを選ぶかをよく考え、「逃げ出すこと」より「あえて踏みとどまること」を選べば、私たちは踏みとどまれる。ゆえに動機の根底に不満感や怒りなど動力としての感情を想定する必要はない。Jamesのこの「非力動的な動機理論」の背後には、James(1890)の「泣くから悲しい」――常識的因果理解の単なる逆転ではなく、「泣くことが悲しみを構成する」の意――という「非力動的な感情理論」(注1)がある(田嶋, 2007, pp. 62-71)。

 (注1):Jamesは自説「私たちは泣くから悲しいと感じ、怒鳴り散らすからよけいに腹が立つ」への予想される反対論「表出を止めることが感情を強くする。止められた怒りは十倍も強い憎悪となるが、感情は自由に表出すれば楽になる」に以下の反駁をしている。

 私たちが聞き分けのない子供に「いつまでも駄々をこねていてはいけませんよ」と言うとき、子供の感情がはけ口をふさがれ、より強くなるのを期待してはいない。むしろ逆であり、「よく考えてごらんなさい」と言っているのだ。なぜなら感情に流されないことが、よく考えることにつながるから。よって感情への対処で大切なのは、「はけ口をふさがないこと」ではなく、「よく考えること」であり、上記の反対論はもっともらしいが真実ではない(James, 1890, Ⅱ pp. 466-467)。

 

3. 快苦説の廃棄

 James(1892)は、Bain(1876)の「快苦説」(行動の動機は快を求め苦痛を避けることにあるとする快原則の一種)を批判し、快だけでなく苦痛も私たちを引きつけるとして、「快苦説の廃棄」を主張する。この主張は、Jamesの感情理論の柱であり、同時に彼の意志概念の骨格を形成する。Jamesは苦痛が私たちを引きつける具体例として、「私たちは痛む虫歯や傷を押してみたくなる」、「友人が身を投げた窓から身を投げたくなる」、「馬鹿らしい歌詞を何度も頭に浮かべてしまう」などを挙げ、行動を引き起こす条件に単一の名称を与えるなら、それは興味(interest)というべきであるとしている(James, 1892/1939, 下 p. 260)。これが当時の快苦説にJamesが行った批判の第一の要点である。

 James(1890)による快苦説批判の第二の要点は、すべての快が行動の動機になるのではない、行動の動機になり得ない快もある、という指摘である。Jamesは、私たちはうまく危険を逃れれば嬉しいと思うが、嬉しさを感じるために危険を逃れようとするのではない、として「考えとして行動の動機になり得る快」と「行動の結果にたまたま附随する、動機になり得ない快」とを区別している(James, 1890, Ⅱ pp. 556-557)。前者の具体例は「あそこのレストランのランチはおいしいから今日もあそこでランチを食べよう」と思って歩き出す場合である。この場合「ランチのおいしさ」が、考えとして行動の動機になっている。後者の具体例は、大学入試の思いがけない成功に伴って、はしゃいでいる場合である。私たちは大学入試にうまく受かれば嬉しいと思うが、はしゃぐために大学入試を受けるのではない。この、大学入試の思いがけない成功に伴い、はしゃいでいる場合と、逆に大学入試の思いがけない失敗に伴い、ふさぎこんでいる場合(こちらは従来「フラストレーション(欲求不満)の現れ」と考えられている)とを比べてみると、見かけの違いに関わらず、どちらもやや自分を見失っている――どちらも自我機構(次節参照)の計画性と合理性が一時的に損なわれている――という意味で同一である。つまり二つの場合は等価の構造をもち、どちらの場合にも私たちは「やや自分を見失った行動」を選んでいる。

 ところで、思いがけない成功に伴う喜びは、祝福されこそすれ問題視されにくい。しかし思いがけない成功のゆえに自分を見失い、うつ状態になり、自殺した事例は多くある(Menninger, 1938/1963, pp. 66-68)。この思いがけない成功に伴う喜びの中に、見通しの不確かさに揺さぶられ、自分を見失うことによる「ある種の苦しみ」を見出せる。思いがけない成功に伴う喜びの中では、自身のあり方は状況次第になり、状況に揺さぶられ見通しが損なわれる。その結果、ニコニコした表面的笑顔の裏で、自信に乏しい脆弱な自我が育ちやすい。こうした事例も、非力動的観点に立てば、フラストレーション(意外感)の例として理解できる。

 

4. 非力動的に捉えたフラストレーションの構造

 前節で示した等価の構造をもつ二つの場合、ふさぎこんでいる場合と、はしゃいでいる場合とは、どちらも見通しが損なわれていると考えられ、どちらにも「ある種の苦しみ」が通底していると考えられる。ゆえに、両方を同一のフラストレーション概念にまとめることができる。しかしフラストレーションを、「欲求不満」(不快な緊張状態)として力動的に捉える従来の立場では、そのようにまとめることは可能でなく、「意外感」(見通しが損なわれた状態)として非力動的に捉えることによって、はじめて可能になる。つまり緊張や圧力を想定しない考え方によって、等価の構造をもつ二つの場合、ふさぎこんでいる場合と、はしゃいでいる場合とを、等しく「フラストレーション(意外感)の現れ」として一つにまとめられる。ここでいう意外感は、入試の結果に対して立てた「見通し」が、失敗であれ成功であれ、実際の結果から外れたがゆえに感じられている。ここでフラストレーションを意外感としているのは定義でもないし、新しい訳語の主張でもない。内省および他人との対話に基づく記述である。そこには意外感とでもいうべき、苦しみとでもいうべき、言葉に収まり切らない体験がある。文脈によっては違和感や異物感とも言える(田嶋, 2007, p. 97, p. 126)。 

 上述の「見通し」は、戸川(1978)のいう「心的構え」に相当する。例えば家を出て最寄りの駅まで行く「道順」という「ひとまとまりの知識」が心的構えである。心的構えは目的-手段関係をなしている知識の束であり、同時に計画表としての動機であって、行動はこの計画表に沿って生じる。心的構えは、道順に限らず、大学入試の結果の見通しなど、計画案として生活のあらゆる領域に存在する。多くの心的構えから段階的に構成された全体的構えが、私たちを計画的合理的行動へ導く管理機構つまり自我機構として機能する。非力動論に立つ戸川は、動因や力としての動機を退け、動機が行動を始動させるのではなく、生活活動として絶えず行われている行動が、動機としての先行経験の考えに従う、としている(戸川, 1978, pp. 167-168)。

 

5. 「感情的になること」の一般的理由とその意味

 すでに見てきたように、意外感や苦しみ(フラストレーション)が感じられ、「こんなはずじゃないのに」と思い、自身のあり方が状況次第であるとき、私たちは状況に依存して影響され、感情的になる。その結果、ふさぎこむ、はしゃぐ、腹を立てるなどの「自分を見失った行動」(計画性が一時的に損なわれた行動)を選びやすい。なぜ「自分を見失った行動」を選びやすいかの一般的理由としては、一連の行動系列中に意外感や苦しみを感じることが、見通しの柱である計画性を揺さぶり、自我機構全体の計画性を損ない、自我の弱さをもたらし、現実吟味力を低くするからであろう。 

 ただし、例えば会社での昇進の見通しが外れ意外感を感じた場合、怒りは実際しばしば経験されるが、怒りが必然的に経験されるとはいえない。Lewin (1935)の言うガリレオ的考え方によれば、「頻度が高いこと」と「法則的であること」とは関係がない(田嶋, 2007, pp. 105-111)。つまりフラストレーション状況にある会社員の場合、必ずしも怒りという「自分を見失った行動」を選ぶとは限らない。なぜならこの会社員のフラストレーション状況とは昇進の見通しが外れたことに過ぎないからである。この場合、「見えていなかった事実」に気づいて見通しを修正し計画性を回復できれば私たちは怒りを選ばない。問題は、怒り自体がもたらす「都合のよさ」のゆえに私たちが怒りを選びやすいことである。よって怒るかどうかは、気づきに基づく自身の選択による。その過程についてSartre(1939)は次のように述べる。怒り、恐れ、はしゃぎなど感情的になることの意味は、魔術的理解による世界の変形(transformation)である。例えば、怒りによる魔術的変形とは、不本意な事態から逃避するため、興奮して安直に誰かを悪者にすることである。私たちは不本意なときアラジンが魔法のランプをこすり大男を呼び出したように怒りを呼び出し、怒りを後ろ盾にして「あいつが悪い!」と決め付ける。つまり本来なら事態の複雑さに沿って行うべき、きめ細かな対応(相手の言い分を聞く、不本意さの背景を研究するなど)を省略し、都合のよいセルフ・イメージ「間違っていない私」へ逃避し、相手に責任転嫁できるがゆえに、私たちは怒りを選びやすい。Sartreによると、この魔術性を自覚すれば、私たちは次のような浄化的反省(気づき)に到達できる:「私が彼を憎らしく思うのは、私が怒っているからだ」(傍点原著, Sartre, 1939/2000, p. 166)と。つまり、私が彼を憎らしく思うのは、腹を立てるというお呪(まじな)いにより、被害者の立場を選び、都合よく彼を悪者に仕立て上げているからだと。しかし通常は逆の共犯的反省により魔術性を自覚せず、「私が怒っているのは、彼が憎らしいからだ」(傍点原著, Sartre, 1939/2000, p. 166)と、都合よく魔術的に理解し、「戦いの泥沼」(言い争いや無視など)に陥りやすい。

 感情的になることの意味は、非力動論によれば、現実吟味力低下に伴う「世界の魔術的変形」であり、力動論による「行動への動機づけ」と明確な対比をなす。

 

6.「偏見」と「意外感や苦しみ」との悪循環

 意外感や苦しみ(フラストレーション)は、前節で示したように、自我の弱さをもたらし、現実吟味力を低くし、よって見通しの外れを助長する。こうして慢性的に外れた見通し(偏った思い込み)を一般に偏見という。「意外感や苦しみ」は「偏見」が原因で感じられ、「偏見」は「意外感や苦しみ」が原因で助長され、しばしば悪循環に陥る(田嶋, 2007, pp. 88-101)。

 この悪循環に対処するには、事実に沿った認識により見通しの外れを修正する必要があるが、簡単でない。なぜなら、まず複雑な状況の全貌は見通しにくい。しかも、思い通りでないとき私たちが選ぶ、怒り以外の「自分を見失った行動」(例えば傷つきやすさ、自己嫌悪など)も、怒りの場合と同様「都合のよさ」をもたらすので、私たちはそれらを選びやすいからである。例えば、見通しが外れてがっかりし部屋に閉じこもったら案外居心地がよいので、その後も思い通りにならないと、つい部屋に閉じこもる場合がある。この対処は短絡的であり現実からの逃避と言えるが、そこに緊急避難的な成果(居心地のよさ)が含まれているので、その後もそれが選ばれやすく習慣化しやすい。この習慣化の同様な過程は、どの「自分を見失った行動」にも見られる。ゆえに、「自分を見失った行動」が習慣化しパターン化した「自分を見失ったあり方」から回復するには、それを単に悪者扱いする(症状として性急に除去しようとする)のではなく、内省と対話を通して、それが私たちにもつ意味(どんな利点や弊害があるのか)に気づき、その気づきが自身の新たなあり方に向かう動きを創り出す必要がある(次章4表1参照)。

 また人種や障害者などへの偏見や差別意識の弊害とは、ダイナ・ショアのように、偏見や差別意識を抱く人自身が、フラストレーション(意外感や苦しみ)を感じやすく、事実に沿った判断を失いやすいことである。〔ダイナ・ショアの事例:黒人差別の激しい土地テネシー州ナッシュビル出身の歌手ダイナ・ショアは自分を白人だと思い、黒人に差別感を持っていた。実は数世代前に黒人の血が混じっていたが、彼女はそれを知らず白人男性と結婚し、生まれた子が黒人であった。そのショックから彼女はその子を殺し、自殺を図ったが、未遂で生き残った(野間・安岡, 1977, p. 192)。〕この例では黒人の子が生まれ、自身の意外な血筋を知った彼女がジレンマの苦しみを感じ、内的崩壊を起こし、破壊的意味での自己放棄に至った。しかし偏見を抱く彼女が苦しみを感じているということは、偏見の対象になったその子をめぐる意外な事実とその意味を彼女が受け容れてはいないことを示すサインであり、自身のあり方を選び直す努力の余地があることを示している。非力動的観点からのこうしたフラストレーション理解によって、「偏見」と「意外感や苦しみ」との悪循環に、どのように向き合えるかの示唆が得られる。

 

7. Jamesの意志心理学の考え方

 前節までに示した非力動的観点からのフラストレーション理解の基礎には、James (1880, 1892, 1899)の「意志」に関する心理学的考察がある。ここでJames(1892)の第26章の記述により、彼の意志概念を明らかにする。この意志心理学の考え方は以下の記号化として表現されている(James, 1892/1939, 下 p. 256)。 

   Iそれ自体 < P、 I+E > P 

 I:ideal impulse 理想を求める気持ち

 P:propensity 性癖、E:effort 努力 

 1)理想を求める気持ち(I)とは、性癖(P)から自由であろうとする気持ちである。

 2)性癖(P)とは、見通しが外れたとき私たちが習慣的に選ぶ「自分を見失ったあり方」、つまり「もっともらしくて都合がよい名目」(plausible good names)に従う傾向のことである。例えば、もうやめようと思ったのに酒びんを前にして再び誘惑を感じている酒飲みがジレンマの中で、「これは新しい銘柄の酒だから知的教養のため少し試さねば」、「飲みたいから飲むのではない。非常に寒いからだ」と言って、都合のよい思い込みに逃避し、結局飲んでしまうことである。またダイナ・ショアの短絡的行動に見られる、「都合の悪い現実を否認し、自身を正当化する傾向」のことである。 

 3)努力(E)とは、例えば酒を飲みたい心などが提供する「もっともらしくて都合がよい名目」に目を奪われないで、「都合は悪いが、より事実に沿った名目」(truer bad name)に着目し、「言い訳しても結局は飲むことに他ならない」、「自分は混血である」などと気づくことである。つまり努力とは、飲酒や偏見などのジレンマの中で、自身の性癖に潜む意味(現実否認と自己正当化)に気づき、新たな見通しを立てることである。上述の「都合が悪い(bad)」は以下の意味を含む。「酒を飲むことに他ならない」と気づけば、「酒を飲むのではない。非常に寒いからだ」の言い訳が立たなくなるので都合が悪い。「自分は混血である」と気づけば、混血という事実は受け容れにくいので都合が悪い。ゆえに努力とは、都合が悪い事実に沿って、「酒を飲むことに他ならない」、「自分は混血である」などの気づきを受け容れて、自身のあり方を選び直すことである。

 James(1880)によれば、「努力とは何か。きっぱりした意志をもたらすことである。意志(volition)とは何か。ある考えが不快でも、それにしっかりした勝利をもたらすことである。またある考えがとりあえず快くとも、それを禁止し続けることである。〔…〕難破船上の水夫にとって一つの考えは、もっと排水ポンプを押せば、すりむけた手は痛み、疲労困憊した身体は何ともいえず疼くだろうということである。もう一つの考えは、彼を飲み込もうとしている飢えた海である。彼が『むしろ前者だ!』と言えば、彼がその時、横たわっている場所の比較的安楽な感覚が足を引っぱるにも関わらず、もっと排水ポンプを押すことが現実となる」(James, 1880/1959, pp. 82-83, 田嶋訳語改訂)。

 ここでは、「痛む手でポンプを押すこと」さもなくば「彼を飲み込もうとしている飢えた海」、という二つの「都合の悪さ」に挟まれ、熟慮の上「むしろ前者だ!」と気づき、「痛む手でポンプを押すこと」を選び直している。しかしポンプを押すこと自体は単なる作業に過ぎず努力ではない。努力とは、従来の努力概念とは異なり、事柄の全体に沿って意味を認識することを言う。この「認識としての努力」は意志と同義であり、ジレンマの苦しみの中で自身の性癖に気づき、事柄の全体に沿った新たな見通しを受け容れ、自身のあり方を選び直すことである。なお意志の強さとは、一つの理想に向けて見通しが立っている(目的-手段の結びつきに気づいている)ことである。気づきとは、共感を伴う意味の認識により、体との対話が起こり、体全体が「ああそうだなあ」と同意し、胸がスーッとしたり呼吸がフーッと深くなったりして体感が変化する事柄である。

 4)Iそれ自体<Pとは、私たちには、都合のよい思い込みに逃避し、都合の悪い現実に向き合うことを避けようとする「現実否認と自己正当化の傾向」(性癖)があるのに対して、理想を求める気持ちそれ自体は、聴かれにくい静かなささやきであることを意味する。

 5)I+E>Pとは、努力つまり意志を伴ってはじめて、私たちは性癖(自分を見失ったあり方とその背後にある偏見)から自由であり得ることを意味する。

 以上のJamesの意志心理学は、努力概念再生の手がかりを示している。次章3でそれを深める。 

 本章の結論:①フラストレーションとは、見通しが損なわれた状態、意外感である。②意外感は偏見が原因で感じられる。③意外感が計画性を損なうので、「自分を見失ったあり方」(性癖)が選ばれやすい。④性癖に潜む意味(現実否認と自己正当化)に気づき、都合が悪い事実を含む事柄の全体に沿って見通しを回復し、自身のあり方を選び直す努力が私たちには可能である。

 

Ⅵ章 非力動的な考え方の本質についての総合的考察

1. 力動的な考え方の形成過程分析結果(Ⅲ章の要約)

 力動的な考え方は、本来ありもしない「不動なもの」を想定し、それとのセットとして、本来導入しなくてもよい「動かす力」を導入する変形作用によって形成されている。この力動論の問題点は、動機の根底に不満感や怒りなど「動かす力」を導入するため、自身の言動の責任が、不満感や怒りなどの感情に転嫁されやすく、自身が行為の主体であることを認めにくい点にある。この責任転嫁のゆえに、私たちは習慣的に被害者意識や敵対的構えに陥りやすく、「自分を見失ったあり方」(性癖)が蔓延することになる(本章4表1参照)。

 

2. 非力動的な考え方の本質

 前節で示した「力動論の問題点」から翻って考えると、非力動論の本質は、すでに生きて動いているこの意識世界を、不満感や怒りなど「動かす力」を導入せず、あるがままに理解しようとする点にある。非力動論はこの本質ゆえに現象理解に役立っているが、非力動論の研究者は多くはない。James, W. やBergson, H. 以降では、Sartre, J.P. や戸川などであり、筆者もこの立場に立つ。次節では非力動的観点に立ち、従来の力動的努力概念の問題点と本来の努力とは何かを示す。

 

3. 努力とは、「気づきや工夫」のことである

 1)努力を、「力としての努力」に変形させたもの

 努力とは本来、気づき、工夫、熟慮、受容など、「損なわれた見通しを回復するため用い得るあらゆる能力」を指し示すものである。しかし、「目的を実現しようとするとき、私たちを突き動かすものは不満感である」としたDewey(1891)らの力動論に影響された私たちは、努力概念に不満感を混入し、努力概念を変形させ、その結果、努力がプレッシャー(圧迫感)と混同され、苛立ち・力み・焦りと区別がつかなくなっているのではないか。しかし、それらは次のような「都合のよさ」をもった性癖である。例えば、目的を実現しようとして圧迫感や拘束感を感じる結果、やらされているという被害者意識によって責任回避ができる。目的を実現しようとして今の自分を受け容れず自分に苛立ち自己嫌悪することで、「自分は本来もっとできるはずだ」と思える。目的を実現させようとして生徒指導や子育てで苛立ち体罰を加えることで、「この子はもっとできるはずだ」と思える。目的を実現しようとして力みや焦りを感じる結果、「その場かけ足」のように何かをやっている気になり、擬似的充実感が得られて都合がよい。

 つまり力動的な考え方が、不満感や苛立ちなどを努力概念に混入させ、本来の努力を、それと似て非なる、ある種の力み、「力としての努力」(性癖)に変形させたのである。その結果、変形された努力は、James(1902)が下記の観察所見で見抜いたように、昔も今も多くの人から敬遠され、「努力嫌い」を作り出している。この努力嫌いは「力としての努力」(性癖)から派生する。Jamesは「力としての努力」(たゆまぬ努力、張りつめた意志)とそれからの解放について次のように述べる。

 観察所見1「世間に定評のある道徳家たちは、たゆまぬ努力を怠るな、と私たちに忠告する。〔…〕『ひきしぼった弓のように意志を張りつめていよ』と。ところが、こういう意識的な努力は失敗に終わり心を苛立たせるばかりで(傍点田嶋)、彼らを以前の二倍もの地獄の子とする。〔…〕こういうわけで成功への道は、無数の信頼すべき人々が述べているように、一種の反道徳的方法、すなわち『放棄(明け渡すこと)』(surrender)による。能動ではなく受動が、緊張ではなく弛緩が規則となるべきである。責任感を捨てよ、握った手を離せ、運命への配慮をより高い力に委ねよ、なりゆきに無関心であれ、そうすれば内心の救いを得るばかりでなく、諦めたつもりでいた物をも手に入れられるだろう。これが、ルター神学の説く、自己絶望による救い、本当に生まれるために死ぬことである。〔…〕そこへ達するには、一つの危機点が通過され、心のなかで一つの角が曲がられ、何かが崩壊せねばならない。〔…〕この体験を十分に味わった人々に対しては、どんな批判もこの体験の実在性を疑わせることはできない。彼らは知っているのだ。なぜなら彼らは個人的意志の緊張を棄てたとき、より高い力を現実に感じたからである。〔…〕努力の放棄の結果として生じる再生の現象は、人間本性の動かせない事実である」(イタリック原著, James, 1902/1970, 上 pp. 169-171, 田嶋訳語改訂)。

 ここでは「力としての努力」に言及している。こういう意識的な努力は失敗に終わり心を苛立たせるばかりとは現代でも観察される私たちのあり方である。力としての努力を放棄し、自身を明け渡し、受動の態度をとったとき、今のあり方を超えられる。そのとき内的崩壊と自己放棄のもつ創造的意味、感動が現れる(もう一つの意味、破壊的意味は前章6「ダイナ・ショアの自己放棄」参照)。感動し魅了されること(自我機構の計画性を脅かすものを受け容れること)は、自分次第ではない、苦しみ(フラストレーション)を孕んだ体験であり、自身の今のあり方を揺さぶり、新しいあり方への道を開くものとして位置づけられる。感動し魅了されることがその人のあり方を大きく変容させた宗教的回心の事例を、James(1902)は多く挙げている。 

 しかし、そのような変容は宗教的回心の事例に限らず、日常の精神生活の中でも観察されている。気づきが変容をもたらした具体例として、精神療法家の神田橋(1990)は、境界例を治療する試行錯誤の中で得た発見、「窮すれば通ず」について次のように述べている。

 観察所見2「偶然の幸運で、窮すれば通ずの元の形が、『窮すれば則ち変じ、変ずれば則ち通ず』(田嶋注4)であることを知った。その瞬間に把握感があった。通じるためには変化しなくてはならず、変化するには充分に窮しなくてはならない。早め早めに窮していくのがコツであると連想した。そして、道が拓けず困っているときは、実は、窮していることを心のどこかで否認していることに気づいた。窮している自己のありさまに充分に直面しさえすれば、ほどなく、自己の内部に崩壊感を伴った変化が生起し、引き続いて新鮮な連想が突然湧いてくることをくりかえし体験した。なぜそうなるのかを知りたいと思い、カタストロフィ理論など読んでみても、腑に落ちなかった。理屈はわからなくても、起こってくるのは確かなので、以後今日まで、この標語がわたくしの頼りの宝杖となった」(神田橋, 1990, p. 228)。

 (田嶋注4):(原典『易経』p. 282)。 

 これは困っているときの私たちへの助言である。「窮している自己のありさまに充分に直面しさえすれば、ほどなく、自己の内部に崩壊感を伴った変化が生起し、引き続いて新鮮な連想が突然湧いてくる」とは、自身が窮していること――苦しみ(フラストレーション)の中にいること――を受け容れて、これに充分に直面することが、気づきをもたらし、今のあり方を崩し、向こう側への道を開く、ということに他ならない。

 上記の観察所見1と観察所見2の内容には共通点が四つある。①意識的な努力(力としての努力)の放棄。②放棄(明け渡すこと)によって、内的崩壊を伴う変化が起きている。③価値のある体験である。④起こるのを待つべき確かな何ごとかがあるという信頼がある。

 すなわち、力としての努力を放棄すれば、私たちは、まだ気づいてはいない何ものか(向こう側、事柄の全体)を信頼し、待てるようになる。そのとき、認識としての努力は、信頼に支えられ、心を開き、「まだ気づいてはいない何ものかに向けて捧げられたあり方」(注2)となる。それはやがて、認識としての努力の結実として、本稿で幾つかの事例を挙げて言及してきた「気づき」(新鮮な連想)をもたらし、「日常の工夫」(着想や発明)(注3)をもたらすだろう。努力とは、事柄の全体に沿って意味を認識し、新たにもたらされた「気づきや工夫」の多様な視点を受け容れることである。 

 (注2):「祈りというのは、無益な言葉を唱えることではない、〔…〕祈りとは、真剣に心の扉を開いて受け容れようと身構えた態度をあらわす一般的名称なのだ。そこで、もしぼくらが誰に祈るのかと尋ねられるなら、その答えは(いかにも奇妙だが)、そんなことは大した問題じゃない、というほかはない」(傍点原著, James, 1902/1970, 下 pp. 308-311)。 

 (注3):幸田露伴の『努力論』(1940)によれば、努力とは工夫であった(例えば惜福の工夫)。「自己の福を使い尽さずに、幾分を存留しておく、それを惜福の工夫というのである。〔…〕福佑を取り尽くさず使い尽さずして、これを天といおうか将来といおうか、いずれにしても冥々たり茫々たる運命に預け置き積み置くを、福を惜しむという」(幸田, 1940, p. 58)。

 

 2)努力とは何か、その形式と内容における結論

 努力は、まず形式上、James(1902)によれば、二つの型にまとめられる:「精神的成果をもたらす努力には、実務的教養やスポーツや音楽技術の育成にも、また宗教的回心にも、二つの型がある。第一は『意志的な型』であり、変化は意識的漸次的で、精神習慣の新しいセットは少しずつ確立される。第二は『自己放棄による型』であり、潜在意識の影響がより豊富で、意識的な努力の放棄によって、救いなどをもたらす突発的変化が起こる。しかし、二つの型の差異は根本的ではなく、意識的変化の中に自己放棄が差し挟まれることもある」(James, 1902/1970, 上 pp. 311-314, 要約)。

 次に内容上、努力は、Jamesや幸田や神田橋に基づいて以下にまとめられる:私たちは、精神的成果を目指して、損なわれた見通しを回復しようと苦しむ中で、力としての努力を放棄すれば、圧迫感・苛立ち・力み・焦りなどから解放される。そして、自身の性癖(現実否認と自己正当化の傾向)に充分に直面すれば、内的崩壊を伴う変化と再生が起こる。その際、従来の努力概念では包括できない遥かに広汎な能力が顕在化する。能力とは私たちにできることである。例えば、「気づき・工夫・熟慮・受容、率直な対話・見通しを立てること・選び直すこと、感動・明け渡すこと・祈り、感じること・連想・想像、落ち着き・ユーモア・思いやり、寛容・許し・勇気、安らぎ・喜び・親密など」。これらはいずれも本稿で取り上げた私たちの能力である。すなわち、力としての努力を放棄し、その影響から解放されるならば、私たちに元々備わる上記の諸能力は、本来の努力概念「気づきや工夫」の内容として再生し、向上・深化・回復などの目的実現に役立つものとなる。

 

4. 非力動的観点の適用による現象理解の豊富化

 非力動的観点による現象理解の更なる豊富化として、前節「努力とは何か」に加え、次の三項が挙げられる。

 

 その1:非力動的観点に立てば、従来のフラストレーション概念「欲求不満」の網目にかからぬまま放置され孤立する私たちの精神生活の多くの苦しみ――例えば「敗戦による社会的規模の虚脱状態」、「ガンの告知を受容する苦しみ」、「日常の思いがけない事態」、「強制収容所からの解放の後遺症」、「小説『或日の大石内蔵之助』末尾での内蔵之助の云いようのない寂しさ」など(田嶋, 2007, pp. 39-57)――を新たなフラストレーション概念「意外感」の現れとして包括的に理解できる。新たな概念「意外感」は、私たちがフラストレーションの現れとしての多様な苦しみを生きる上で、確かな見通しを与え、私たちを導く地図になり得る。

 

 その2:動力として導入しなければ、とかく問題の種になる「不満感、不快感、憎悪などの感情」は、動機から切り離された上で、フラストレーションに伴う性癖として、自身の内的状態に気づく手がかりとなる。

 ただし、フラストレーションは、常に、私たちにとって都合が悪い事実が思いがけず露呈した瞬間に感じられている。都合が悪い事実とは、事柄の意外な結果、期待を裏切る相手の言動などである。それらは受け容れにくいが、確固として示された新鮮な事実である。フラストレーションを、「解消するべき不快な緊張状態」(はじめに参照)としてではなく、「都合が悪い事実が思いがけず現れ、見通し(計画性)が損なわれた状態」として理解したとき、意外感や苦しみは、都合が悪い事実を含む事柄の全体に沿って見通しを回復し、自身のあり方を選び直す道、すなわち努力が可能なことを示すものとなる。努力を通してフラストレーションは、私たちがまだ気づいてはいない都合が悪い事実とその意味(例えばダイナ・ショアにとっては黒人の子が生まれたこととその意味)に気づく貴重な機会となる。

 その3:動力が要らない見通しという自律的観点に立てば、「自分がそうしたのは、感情や他人のせいではなく、自分がそうすることを選んだからである」という私たちの精神生活の基本となる認識が可能になる。 

 ところが私たちには自分がそうしたのを感情や他人のせいにして、不満が爆発したから、ストレスが蓄積し心が破綻したから、彼が憎らしいから、やらされているから、などと多彩な理由の陰に隠れる性癖がある。これは区別しにくく網目状に繋がった無数の性癖の一つである(田嶋, 2007, p. 152)。性癖の背後には都合の悪い現実を否認できる「都合のよさ」があるため、性癖から回復するのは簡単でない。私たちは「都合のよさ」のゆえに性癖を選んだが、その代償として「都合の悪さ」をも取り入れた。この両面の意味に気づき、どちらの意味をも切り捨てず、今の自分に引きつけて考え感じ続ける内省と対話の努力により、個々の性癖から回復できる。「表1」に気づき得る両面の意味を例示したが、両面の意味の気づきをさらに深めることが、自身のあり方を選び直す余地を開き、回復へ向かう手がかりとなる。例えば怒りについて言えば、私たちは単に相手に嫌なことを言われても腹は立たない。腹が立つのは、「嫌なことを言われたら腹を立てて当然だ」という相手に責任転嫁できる都合のよいあり方を暗に選んでいるからである(表1参照)。ゆえに「怒りをいま自分で選んで握りしめている」と気づくことが、被害者的あり方「怒りっぽさ」と距離を取り、あり方を選び直す努力になる。こうした認識は「怒りが行動を動機づける」とする力動論では成り立たない。ただし、「腹を立ててはいけない」のではない。今の怒りの気持ちを工夫して正直に表現できることは、アパシーや知性化を選びやすい私たちにとって大切な能力である。

 

5. まとめと展望

 1)パターン化したあり方の向こう側にある自分

 本研究では、自分を見失ったあり方(性癖)の諸パターンを振り返り、思い込みの意味を見てきた(表1参照)。しかしパターンや思い込みが自分なのではない。パターンやその背後にある思い込みの意味に気づき、自身のあり方を選び直す努力(意志)によって、はじめて「パターン化したあり方の向こう側にある自分」(注4)が浮かび上がり、感じられる。この考え方が、James (1892)による「Iそれ自体<P、I+E>P」の根底の意味である。また、この考え方は、「理想を熱望しても勇気および意志と結びつかなければ十分ではない」(James, 1899/1960, p. 296, 田嶋訳語改訂)という認識と相まって意志心理学の基礎になり、私たちのさらなる努力(気づきや工夫)を可能にしている。

 (注4):安らぎ(何もしない幸福)・喜び・親密・沈黙の豊かさ・存在の不思議さなどを指す。これら内なる理想は、暮しの中では見落とされやすいが、失われた訳ではなく地下に伏流水として豊富に流れている。

 

 2)本研究の結果、理論領域での意味、今後の課題 

 本研究の結果:再考した結果、フラストレーションとは、見通しが外れた意外感である。意外感は偏見が原因で感じられるが、努力によって新たな見通しが立てられる。再考の基盤となる「非力動的な考え方」とは、この意識世界はすでに動いているから行動の動力を必要としないという考え方である。従来の概念「欲求不満」ではカバーできない精神生活の多様な苦しみを、新たな概念「意外感」により包括的に理解できる。

 本研究の動機理論領域での意味:力動論による限り、動かす力(不満感や怒りなど)が導入され、責任転嫁が起こり、性癖が蔓延しやすい。非力動論によれば、努力(気づきや工夫)によって性癖に潜む意味に気づき、新たな見通しを立て、自身のあり方を選び直せる。

 今後の課題:精神生活の諸概念(コンフリクトなど)を非力動的観点から再考する。また現代心理学の諸理論が含む力動論の問題点を非力動的観点から取り上げる。さらに、現代に蔓延する「努力嫌い」と「努力が苛立ちや体罰に至る傾向」は、コーチや親の品性の問題ではなく、私たち自身の「力としての努力」とその奥にある力動論の問題であろう。今後詳細に検討する。

 

 (謝辞:本研究のご指導を頂いたIPI研究所平木典子先生、京都橘大学田中芳幸先生に感謝します)

   (Correspondence:nqh39647@gmail.com)

 

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